東トルキスタンの地理
東トルキスタンは、古代シルクロード上に位置しており、地理的にはユーラシア大陸の心臓部にあたる。今の中国では「新疆ウイグル自治区」と呼ばれている。東側で中国やモンゴル、北側でロシア、西側でカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド、南側でチベットと国境を接しており、国境線の総延長は約5700Kmに達する。総面積(182万平方Km)は今の中国の省・自治区の中で最大(中国全土の約六分の一を占める)であり、トルコ共和国の約2倍、カリフォルニア州の約4倍、日本の約4.5倍に相当する。
東トルキスタンは、地理的に中国の自然辺境(そして本来の辺境)である万里の長城の外側に位置する。歴史や文化の面から見ても、東トルキスタンは中央アジアの一部であり、決して中国の一部ではない。北京とは2時間の時差があり、一般的にウイグル人の間では北京時間より2時間遅れのウルムチ時間(新疆時間とも呼ばれる)が使われている。政府機関や中国人(漢人)移民の間では、自然の規律を無視した形で無理やり北京時間が使われている。
主な地形
主な地形は三つの山脈と二つの盆地から形成されている。東トルキスタンのほぼ中央にそびえるテングリタグ(天山)山脈を背骨とし、テングリタグ山脈と北のアルタイ山脈の間にジュンガル盆地(面積30.42万平方Km)、テングリタグ山脈と南のコインルン(崑崙)山脈の間にタリム盆地(面積53万平方Km)が広がる。そのため、今の中国では、テングリタグ山脈を境として、ジュンガル盆地のある北側を 北新疆(北疆)、タリム盆地のある南側を南新疆(南疆)と呼ぶこともある。タリム盆地には、世界で二番目に大きいタクラマカン砂漠が広がっているが、テングリタグ山脈南麓とコインルン山脈北麓に沿ってオアシス都市がほぼ連なって点在している。また、ジュンガル盆地にもクルバントンギュット砂漠がある。国土面積の約43%を砂漠(石油や天然ガスなどの資源が豊富に埋蔵されている砂漠)が占めている。
テングリタグ山脈が東トルキスタンの中部に横たわっており、国境内部の長さは1700Km、幅は250~300Kmである。北部の国境にあるアルタイ山脈はロシア、モンゴル、カザフスタンとの自然辺境であり、国境内の長さは400Kmである。南部のコインルン山脈はチベットとの自然辺境である。主な川にはタリム川(長さ2137Km)、イリ川、イルティシュ川、カラシェヘル川、コンチ川、ゼレプシャン川などがある。特にタリム川はウイグル人の間で大昔から聖なる川とされ、「アナデリヤ」(母なる川)と呼ばれている。
主な気候
東トルキスタンはアジア大陸の内陸部に位置する影響から乾燥した気候となっている。降雨量が少なく(年平均降水量は150mm前後)、昼と夜の温度差が非常に激しい、典型的な内陸性気候である。春秋は短く、夏冬が長く、夏であっても場所によっては夜にセーターが必要になる。冬場は最低気温がマイナス20度以上にもなるところも少なくない。一番暑い都市のトルファンは海抜マイナス154m(世界では死海に次ぐ二番目に低い地点)となっており、真夏の平均気温は40度前後、一番暑いときには58度を記録したこともある。年平均降水量は20mm程で、極端に少ない。
首都
東トルキスタンの首都、現在のウイグル自治区の首府はウルムチである。ウルムチが東トルキスタンの政治・経済の中心都市となったのは、1884年の「新疆」の誕生以降のことである。それ以前の歴史には、それぞれの時代においてカシュガル、ヤルカンド、トルファン、ベシバリック、クチャなどの都市が東トルキスタンの政治・経済・文化の中心都市となっていた。
(注:東トルキスタンは1884年11月18日に正式に清の地図に入れられることになってしまい、その名は「新疆」(「新しい占領地」「新たに征服した土地」という意味)に変えられた。清崩壊後の1930年代と1940年代に2回独立を果たしたが、1949年に、ソ連の援助を得た中国人民解放軍が侵入してきて、最終的に東トルキスタン共和国を征服させ、東トルキスタンを占領した。1955年に、中国共産党が東トルキスタンで名ばかりの所謂「新疆ウイグル自治区」を作った。)
ウルムチの平均気温8度前後、年平均降水量271mm。冬はマイナス20度以上にもなり、夏は25度前後と涼しく、雨が多い。総面積が約1.2万平方km。世界で最も海から遠く離れた都市としても知られている。人口は約236万人(2008年度統計)で、漢人移民が70%以上と圧倒的多数となっており、ウイグル人はわずか10%程度までに急速に減少している。
人口分布
歴史上には、東トルキスタンで暮らして来たのは漢人ではなく、ウイグル人をはじめとする中央アジアのトルコ系民族ばかりだった。中国の最近の人口調査によると、東トルキスタンの総人口は1925万人。これは、この土地で違法居住している749万人の漢人移民を含む数字である。(1949年以前は、漢人が20万人ほどしかいなかった。しかも、満州(清)の時代やその後の軍閥らとの戦いの時代に東トルキスタンに流れてきた軍人や軍人の家族がその大半を占めており、一般の漢人市民はほとんどいなかった。清の侵略以前は全くいなかった。)総人口の中で、ウイグル人は960万人であり、多数を占める。一方で、ウイグル人固有の資料によれば、ウイグル人の人口は2000万人前後とさられている。
東トルキスタン北部では、中国人(漢人)移民が総人口の5割以上を占めている地域が多い。特にウルムチとその近辺地域(カラマイ、サンジなど)において総人口の7割以上を占めているほか、兵団の駐屯地とされている石河子市、五家渠市などでは総人口の9割以上を占めている。
(注:東トルキスタンでは「兵団」(正式名は新疆生産建設兵団)と呼ばれる準軍事的巨大組織がある。兵団の名目上の役割は辺境地域の開発、経済開発、社会の安定と調和の保証となっているが、事実上は資源の安定且つ継続的略奪と東トルキスタンの永久的占領を保証する任務を負っている軍事組織である。人口は約300万人とされており、ほぼ全員が中国人(漢人)移民となっている。なお、中国当局 が発表している東トルキスタンの総人口には兵団の人口が含まれていないとされている。)
東トルキスタン南部では、ウイグル人の割合が多い。しかし、東トルキスタン南部でも中国人移民は都市部を中心に日々増え続けているのが現実である。また、アラル市(アクス地区アワット県の近くに位置する)、トムシュク市(カシュガル地区マラルベシ県の近くに位置する)などを拠点とした兵団の駐屯地はゼレプシャン川やタリム川に沿って点々と続いており、それらの地域では漢人の数が圧倒的に多い。
さらに、最近ではウイグル人の割合が多い東トルキスタン南部地域を中心に中国人移民の入植を加速させる一方で、ウイグルの若者たち(主に結婚適齢期の未婚女性)を年間数万人単位で中国本土各地に(「集団就職」との名のもとで)強制的に連行している。そして、中国当局は、日々増え続けている漢人流動人口の東トルキスタンでの定住化にも力を入れており、人口の逆転現象が広がりつつある。(RFAの2008年11月4日の報道では、中国当局の声である「天山網」サイトの報道を引用し、中国当局は東トルキスタンで一時滞在資格で滞在している350万人の漢人の流れ者に2009年から定住権を与えることを決めたと伝えている。)
1949年には東トルキスタンの総人口の5%も占めていなかった漢人は、今では当局の公式発表だけでも40%以上を占めるようになった。一方で、1949年の占領以前に東トルキスタン総人口の80%以上を占めていたウイグル人は、今では50%以下を占めるようになり、自らの国土で少数派に転落する傾向にある。(イギリスの時事週刊誌『エコノミスト』は「すでに2000年の人口統計資料でも、ウイグルの多数派は人口の45.3%を占める漢人であり、ウイグル人(42.8%)は少数派に転落した」と報道している。)
主な都市
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ウルムチ
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サンジ
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カラマイ
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アルタイ
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チョチェック
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ボルタラ
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グルジャ
(1940年代の東トルキスタン独立革命の震源地、東トルキスタン共和国(1944-1949)の首都としても知られている。) -
クムル
(1930年代の東トルキスタン独立革命の震源地としても知られている。) -
トルファン
(古代ウイグル仏教文化の中心地としても知られている。) -
コルラ
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クチャ
(古代ウイグル仏教文化の中心地としても知られている。) -
アクス
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アルトゥシュ
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カシュガル
(ウルムチに次いで第二の大都市。独特なウイグル文化(特にウイグルイスラム文化)の中心地としても知られている。) -
ヤルカンド
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ホータン
(古代ウイグル仏教文化の中心地としても知られている。)