「7.5ウルムチ大虐殺事件」直後の祖国訪問記(その2)

世界ウイグル会議、ラビア・カーディル総裁へ

以下は、私が「7.5ウルムチ大虐殺事件」発生後の祖国訪問の際に自ら見たり聞いたりしたことの中で重要だと思った部分のみを簡単にまとめたレポートである。ご活用ください。(証言者たちを中国当局の報復から守る必要性があるため、人名などは明記していない。ご了承ください。)

1. 7月5日のデモとその鎮圧について

ウルムチに住む複数の親戚や友人らの証言によると、7月5日の夜は一斉に停電したのは事実だという。そして、怖くて外には出られなかったが、あちらこちらから連発されている銃声が聞こえてきたという。

当日は、市内のあちらこちらにあるウイグル料理店などで働いていた若者たちも自主的に通りに出てデモ隊に加わっていた。その中でも、第2病院付近で集まった若者たちが病院の監視カメラにはっきりと映ってしまっていた。第2病院の正門前にある「アトシのウギレハニス」「ホータンのカワプハニス」と呼ばれる2大ウイグル料理店は当日から営業停止に追い込まれたが、事件から40日経ってから「アトシのウギレハニス」が新しいスタッフを雇ってようやく営業を再開した。事件前のスタッフたちがみんな所在が分からないという。「ホータンのカワプハニス」では今(8月下旬)でも営業停止の状態が続いている。

7月5日には、事件現場とその付近にいたウイグル人に対する無差別拘束が行われたという。幾つか具体例を挙げると、事情を知っている複数の友人の証言によると、当日事件に巻き込まれ拘束された8歳の子供(ウイグル人)が二日後に釈放され、テレビで取材に答えたという。また、11歳の少女(ウイグル人)も事件に巻き込まれ拘束されたが、 家族が2週間にわたって巡回中の軍隊に食事を届けたり、政府関係者に賄賂をつかったりして、事件から20日ほど経ってからようやく釈放してもらったという。

2. 7月7日の漢人暴動について

私のウルムチに住む複数の友人や家族・親戚たちが、自ら見た現実を基に、7月7日の漢人暴動について次のように話 してくれた:

7月6日に王楽泉という奴がテレビ演説を行い、ウイグル人のことを「暴走民族」などの侮辱的な言葉で非難し、漢人に対して「決して恐れないでください。勇気を出して自分を守ってください」などと呼びかけ、扇動した。7月7日には、ウルムチ市内の数箇所で数千人ずつの漢人集団が暴動に出た。彼らの中には、まるで配られたかのような同じ鉄パイプや刃物などで武装し、同じ白い下着(インナーシャツ)を着ていた人は多くいた。

当日(7月7日)は、私の家族や親戚たちは、新華南路側から民族路側に進行してきた1000人を超える漢人集団の行動をビルの上層階にある自宅の窓から見ていた。それによると、その漢人集団は民族路と衛生庁の間の道を「ウイグル人をみんな殺せ」と叫び、激しい暴動を繰り返しながら進んだという。

結局は、「ウイグル人をみんな殺せ」という叫び声を聞いたウイグルの男たちは、女性や子供を守るために、手に持てるぐらいの棒などを持って自宅や経営していた店舗などから出てきて一箇所に集まった。激しい暴動を繰り返しながら攻撃してきていた漢人集団と家族を守るために集まったウイグル人の間で一定の距離があった。現場に現れた武装警察もその状況を見ていた。

武装警察は攻撃してきていた漢人集団に一言も言わずに、ウイグル人に対して手に持った棒をなどを捨てて自宅に戻るよう命令した。その時、暴走した漢人集団の度を越えた脅迫や侮辱的な口ぶりに我慢できなかった3人のウイグル人青年が前に3~4歩進んだところ、ウイグル人に銃を向けていた武装警察が直ちに彼らの上半身に向けて何発も発砲した。3人はその場で死んだ。

これを受け、集まっていたウイグル人たちは四方八方に逃げ出した。私の家族や親戚たちを含む多くのウイグル人が上層階にある自宅の窓からその光景を見ていた。発砲の後、武装警察は銃をビルの上層階から現場をのぞいていた(そして、銃の音を聞いて下をのぞこうとしていた)住民らに向けて、窓を閉めて自宅に戻るよう命令した。いつでも発砲しそうな様子の武装警察を恐れた住民(私の家族や親戚たちも含む)は自宅に戻り、窓を閉め、カーテンをおろした。その後のことは、私の家族や親戚たちも分からないという。

複数のウルムチ住民(ウイグル人住民)の証言によると、当日(7月7日)は、知らずに外出していたウイグル人が市のあちらこちらで暴走した漢人集団に襲われ、多数の死者が出たという。更に、私がウルムチで会ったウイグル人の多くは、7月7日の漢人暴動で「新疆医科大学」のウイグル人女子大生数人が殺され、切られた頭が木に吊るされたことが事実だと証言した。

また、当日(7月7日)は、漢人が多く住む一部の地域では、漢人住民らが「戸籍確認に訪れた作業チーム」を装ってウイグル人の家に入り、家族全員を殺したこともあるという情報も複数の住民から聞いた。ウルムチの西北路には「アブラジャンのナン屋」と呼ばれる結構有名なナン屋があった。7月7日の漢人暴動で、一人のウイグル人青年がそのナン屋の前で殺され、死体がナンを焼くカマの中に捨てられたという情報も住民から聞いた。

ウルムチに住む複数の友人や家族・親戚たちによると、「ウイグル人をみんな殺せ」と叫びながら行われた7月7日の漢人暴動では多数のウイグル人が被害を受けたにもかかわらず、政府はそのことをほとんど報道しなかったという。むしろ、政府はこの日の被害状況を隠す(証拠を消す)ために素早く手を打ったわけだ。例えば、ウルムチで有名なモスクのひとつであったナンズゴモスクが被害を受けたが、政府は緊急の修復作業を行い、一晩で修復を完成させたという。また、7月7日の漢人暴動で被害を受けたウイグル人の店や住宅なども、政府が早速工事を手配し、元に戻してやったという。

更に、7月7日の漢人暴動で殺されたウイグル人の遺族に対して、政府が「7月5日に殺された」という文章に署名することを強制しているということもウルムチの複数の住民の口から何回も聞いた。

現地では、7月7日の漢人暴動とウイグル人の被害状況について一切報道されていない。しかし、7月5日の事件については、ラビア・カーディルやドルクン・エイサをはじめとする国外の「3悪勢力」が広東省の事件に関する嘘のビデ オを作製し、それを国内のウイグル人に送って扇動したと毎日のように報道している。

ひいては、現地のメデイアで中国当局は「6月26日の広東省での事件に関する映像はすべて「3悪勢力」によって偽装されたもので、そのような事実はなかった」と宣伝している。つまり、広東省での事件そのものを否定するような宣伝まで行っている。私は政府のこの宣伝を見てあきれ返ってしまった。私が現地に滞在している間は、毎日のようにそのような報道ばかりが流されていた。

3. 世界中に知られた、家族の釈放を訴えるウイグル人女性らのデモ(7.7)について

私がウルムチに行く前に、家族の釈放を訴えるウイグル人女性らのデモが海外のメデイアで繰り返し報道されていた。しかし、私がウルムチに行ってからそのことについて尋ねると、ウルムチで私が会ったウイグル人のほとんどがそのデモについて聞いていなかったのだ。つまり、現地のメデイアではそれについて一切伝えていなかったという。私が話してあげると、みんな驚いた。そして、「ウルムチにいながら、近くで起きたデモのことも知らなかった。我々のような報道の自由がなく、嘘つき政府の支配下に置かれている民族は世界中にほかにもあるのだろうか」と口々に不満の声をあげた。

4. 未だに続いている拘束運動や見せしめ脅迫について

ある日、私はブラクコチャ(ウルムチ市内の地名)付近で歩いていたところ、突然やってきた警察車両から数人の警察が降りてきて、歩いていた一人のウイグル人男性に後ろから近づいて、黒い袋をいきなり彼の頭に被せ、拘束していった。私はそれを自分の目を見た。とても怖かった。また、全く同じようなことをウルムチのあちらこちらで目撃したという情報を友人らから何回も聞いた。

更に、拘束中のウイグルの若者たちを手錠と足かせがかけられた姿で街に連れてきて、ウルムチ市内の特にウイグル人が多い地域を引き回し、見せしめ脅迫を行っているという話は目撃した家族や友人らから何回も聞いた。中国当局はその行為について「証拠集めのためだ」とコメントしており、複数人の警察とカメラマンが同行しているという。

ある日、私自身もそのような場面を目撃し、大変ショックを受けた。8月8日のことだったと思う。場所は第2病院付近だった。手錠と足かせがかけられた姿で警察やカメラマンの「証拠集め」に従っていたのは18歳前後のウイグル人男性だった。彼の目が光っておらず、とてもかわいそうだった。警察に言われた通り行動していた。残念ながら、私と一緒にいた家族にしつこく言われて現場をすぐに離れざるをうなかったため、最後まで見ることができなかった。

その数日後に、一人の友人が自ら目撃したことを私に話してくれた。それによると、ウルムチの国際大バザール付近で、手錠と足かせがかけられた姿で警察車両から降りてきた40代のウイグル人男性は、警察とカメラマンの「証拠集 め」に従うことなく、周りのウイグル人に向かって「ウイグル人の同胞たちよ、私たちの冥福を祈ってください。牢屋で若い同胞たちの死亡が相次いでいる。目覚めてください。」と大声で叫んだという。そして、警察が直ちに彼の口を防いで、警察車両に乗せて連行してしまったという。

また、8月15日に私のある親戚がそれに似たようなことを目撃している。その親戚の証言によると、当日はウルムチ市中心部にある「ラビア・カーディル貿易センター」の向かい側にあるバイトラモスクが位置する通りで、警察やカメラマンたちが一人のウイグル人男性を手錠と足かせがかけられた姿で連れまわして「証拠集め」をしていた。目の前で起きていたそのことを見た一人の若いウイグル人商人が小さい声で「犬たち」と警察を罵ったところ、警察がそれに気づいてしまって、そのウイグル人商人に暴力をふって拘束し、見せしめ脅迫のモデルにされていた例のウイグル人男性と一緒に連行していったという。

5. 監獄について

ウルムチでは、多くのウイグル人の口から次のような話(警察の口から漏れた話と言われている)を聞くことができる:

つまり、今回のウルムチ事件関係で拘束されたウイグル人のほとんどが、ウルムチ付近の山の中にある寒くて暗い監獄に入れられている。また、8人部屋に30~40人ずつ入れられており、裸で長時間寒い牢屋の壁にもたれている間に肺がダメになり死んでいく者も多く出ているという。

なお、7月5日には、試験を終えて帰宅中の高校3年生の学生たちが通りに多くいたが、彼らまで無差別に拘束され連行されてしまったという。私のある親戚の話によると、近所の人の高校3年生の子供が当日の無差別拘束で拘束されたが、学校側の仲介で十日間後に釈放された。その高校生のお母さんが私の親戚に自ら話してくれた証言によると、拘束中に酷い精神的拷問と肉体的拷問を受けたため、子供が頭がおかしくなった様子で監獄から出てきたという。

更に、釈放されたウイグル人の中に頭がおかしくなった様子で出てくるケースがかなり多いと言われている。その理由については、拘束中に特殊の薬や注射されたそうだという情報も流れている。それだけではなく、自分の子供がどこに拘束されているのかも分からなくて苦しんでいる親たちも多くいるという。私のあるクラスメートが話してくれた証言よると、弟二人が拘束されてしまったが、未だに(8月下旬)一切の消息が分からないままだという。そして 、家族が幾つかの刑務所に行方を捜しに行ったが、「今は分からない」と言われて追い返されたという。

6. 無差別発砲で撃たれた一人のウイグル人女性の運命について

7月5日に、17~18歳の一人のウイグル人女性が経営していた店を閉めて帰宅するために「アブリズ貿易センター」から外に出たところ、近くの通りで起きていた武装警察による無差別発砲から飛んできた銃弾が偶然にも彼女の手に当たってしまい、重傷を負った。その後、家族が彼女を第2病院に連れて行き、治療させた。しかし、翌日には、医者服を着ていた数人が突然やってきて、「別の治療室で診察がある」と言って彼女を連れて行ったまま、彼女は姿を消した。(2度と戻って来なかった。)彼女の家族は病院側と政府側に「自宅で我々の連絡を待ってください」と言われたまま、今でも(8月下旬)自宅軟禁状態に置かれている。このことは、ウルムチで多くのウイグル人に知られている。

この悲劇に遭った一家は、私がよく知っている知り合いだった。私はその家に行って詳しい事情を聞くことも試みましたが、彼らの家の周りで随時警察が監視に当たっていたため無理だった。私は外国に戻る時に、その家の電話番号を持ち出した。しかし、外国に出てから電話したら、何故か繋がらない状況が続いている。私は今、あの一家と連絡が取れる電話番号はほかにもあるかどうかを調べている。(終わり)

2009年8月26日

http://www.rfa.org/uyghur/xewerler/tepsili_xewer/5-iyul-toghrisida-09172009195228.html
https://www.uyghurcongress.org/Uy/News.asp?ItemID=1252467860

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