証言者たちが語る「7.5ウルムチ大虐殺事件」の真相(その5)

RFA 2009年9月16日
(7月5日にウルムチでデモに参加したウイグル人女性のカザフスタンからの証言)

記者:もしもし、RFAウイグル語部門です。

ウイグル人女性:私は7月5日にウルムチでデモに参加した者です。自分が見た状況を話したいのですが。

記者:ありがとうございます。何処から電話しているのかを聞いても大丈夫ですか。

ウイグル人女性:はい、カザフスタンから電話しています。先週ウルムチからカザフスタンに来たばかりです。

記者:はい、どうぞ。

ウイグル人女性:7月5日には、ウルムチ市内の自宅にいました。12時ごろに一人の男性友人が私に電話し、人民広場に行くようにと伝えた。それで、私は午後4時ごろにそこへ行きました。私が来た時には、人々があちらこちらに逃げだしていた。何が起きたのだろうと思って、少し近くまで行って見て見たら、大勢の武装警察が逃げている若者たちを追いかけながら必死で殴りつけたり、トラックに積み込んだりしていた。逃げていた何人もの若者が武装警察の発砲で足に撃たれて倒れていったのを見ました。

記者:貴女が見た警察の発砲は、若者たちがまだ人民広場にいた時のことですか、それとも二道橋方面へ進行していた時のことですか。

ウイグル人女性:若者たちが人民広場から逃げ出して来ていた時のことです。

記者:その時、若者たちの手に石や棒などがありましたか。

ウイグル人女性:なかった。何もなかった。私は人民広場から逃げ出してきた一人の若者に状況を聞きました。その人は当時の状況を次のように話してくれた:

「私たちは手に何も持たずに人民広場に集まって、ただ広東省韶関市で起きた事件の詳細とどのように処理されたのかについて政府に説明を求めた。政府側は私たちに「一時間待ってください」と言いました。言われた通り一時間待ちましたが、その間に大勢の武装警察が私たちを包囲してきて、殴りつけたりして拘束を始めた。」

記者:その後、貴女は結局人民広場に入ったのですか。

ウイグル人女性:武装警察が通さなかったため人民広場に入ることはできなかった。人民広場で手に何も持たずにデモに集まった若者たちに武装警察が発砲したとの情報と銃声を聞いて子供や同胞たちのことを心配したウイグルの市民が人民広場方面に大量に流れてきたが、武装警察は通さなかった。そこで、集まってきた市民が人民広場で拘束された若者たちの釈放と武装警察による乱暴な武力鎮圧の中止を訴えるデモ隊になってしまった。私も当然ながらそのデモ隊に加わった一人です。デモ隊は「人民広場での同胞たちを釈放しろ」と叫びながら武装警察と対立した。

その時、南門付近にいた私の友人から連絡がきて、人民広場での状況を聞いて子供や同胞たちのことを心配して人民広場方面に向かっていた大勢のウイグルの市民が南門付近で武装警察に防がれていることを知った。武装警察が私たちを包囲し、力で解散させようとした。武装警察が追いかける中、私たちはラビアビルの前に来た。ラビアビルの前に来てみたら、そこでも武装警察がウイグルの若者たち殴りつけたりしながら捕まっていた。集まった市民らは「釈放しろ」「彼らに何の罪もない」などのスローガンを叫んで対立した。私たちの近くを通りかかった漢人市民らは私たちに向かって「奴らよ、お前らにデモをする権利を誰が与えたのか」「奴らを釈放するべきじゃない、やっつけてやるべき」と叫んだりした。

結局、町のあちらこちらで武装警察による発砲が相次ぎ、何人もの若者が撃たれて死亡したため、集まっていた市民らの怒りが爆発し、通りかかった漢人らを襲撃したりした。現場に駆け付けた救急車はちょっとした怪我を負った漢人まで拾って運びましたが、撃たれて血だらけになった状態で倒れていたウイグルの若者たちを無視した。私たちも逃げながら武装警察と対立を続けた。

どれだけの時間が経ったのかは分かりませんが、その後、突然数え切れないほどの軍隊が現れた。上層階の自宅の窓から私たちがいた現場を見ていたウイグルの市民らは口々に「ウイグル人の同胞たちよ、早く逃げてください。悪魔がやって来た」と必死で叫んだ。みんなが逃げ出した。私も逃げて逃げて、夜の12 時ごろになんとか無事帰宅することができた。私たちは暴動を起こすために集まったわけではなかった。だからこそ、当初は、集まっていた人々の手には何一つ武器はなかった。しかし、武装警察の理不尽極まりないやり方が私たちの怒りを爆発させた。何の罪もなく、ただただ広東省韶関市で起きた事件について説明を求めた同胞たちが目の前で銃殺されているのを見て、我慢できなかった。

記者:最初にデモを始めたのは大学生たちだったと聞いていますが、それで間違いありませんか。

ウイグル人女性:人民広場で最初にデモに集まったのは大学生たちと広東省韶関市で殺害されたウイグル人の母親たちで、女性たちは追悼の意を込めて白いスカーフ姿で行っていたと聞きました。先ほども言いましたが、私が人民広場の近くに来た時は既に武装警察が周囲を包囲し、攻撃を始めていた。

中国政府は彼らが破壊・放火・暴力を計画して集まったと宣伝しているが、それなら彼らが最初から手に武器を持って集まるはずです。しかし、最初は彼らの手に何一つ武器はなかった。彼がただただ広東省韶関市で起きた事件について説明を求めただけだった。

一方で、人民広場で罪のない若者たちに武装警察が発砲したとの情報を聞いて、子供や同胞たちのことを心配して市内の各地から人民広場方面に流れていったウイグルの市民らが数か所で武装警察に止められ、自然に新たなデモ隊となった。自然にできたこの新たなデモ隊(私を含む)は人民広場での武力鎮圧の中止と不当拘束された若者たちの釈放を訴えただけだった。だからこそ、私たちの行動を指導する人物もいなかったし、手に武器もなかったのです。武装警察の理不尽な暴力と発砲が私たちの態度を変えたのです。残酷に虐められた時にはウサギだって人を噛むはずです。もし、私たちが事前に計画を立てて、決められた指導者のもとで決められた行動を実行していたならば、ウイグル人が受ける被害はあれほど甚大なものにならなかったはずだと思っています。

http://www.rfa.org/uyghur/xewerler/tepsili_xewer/bir-uyghur-qizi-09162009185508.html

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