証言者たちが語る「7.5ウルムチ大虐殺事件」の真相(その7)

RFA 2009.11.03 – 11.04
(7月5日にウルムチで事件を自ら目撃し、その後事件に関与したとの疑いで拘束された経験のあるウイグル人男性の証言)

記者:7月5日の事件当日あなたはウルムチにいたとのことですが、自己紹介も含め、当時の状況を説明していただけますか。

ウイグル人男性:私は外国で留学中の一人の学生です。6月23日、夏休みの親族訪問でウルムチに帰っていました。6月27日、インターネットを利用している時に、ある英語版のサイトで偶然「6.26広東・韶関事件」についてのニュースに気付いた。すると、この日からウイグル人が多く集まった場所で徐々にその事件のことが話題になり始めた。当局からは会見やコメントなど正式な反応は一切なかった。

6月28日になると、クチャからウルムチに来た親戚から「クチャ、バイ、シャヤル、トクスなど四つの県の状況は現在大変緊迫している」という驚きの話を聞いた。彼によると、「6.26広東・韶関事件」で死傷したウイグル人の中にはクチャ出身の人も多数含まれていることが判明し、それに怒ったクチャの若者たちが27日に県のバザールで漢人の数人を軽傷させる衝突が発生した。これを受け、警察当局はクチャ、バイ、シャヤル、トクスなど四つの県一帯を封鎖し、軍事管制が敷かれたという。

その翌日(6月28日)に、私の母の長距離バス会社で勤務する友人が、地方からウルムチにやってくるウイグル人の数がここ2~3日で急激に増えていること、それを異常だと気付いた長距離バス会社の関係者が当局に報告し注意を促したことを話してくれた。

さらに、7月1日には、長距離バス会社の関係者らが、数日の間に地方からウルムチに到着したウイグル人が2万2千人を超え、異常に増え続けていることを当局に報告し対策を求めたが、当局は「こちらで調べて対応する」と返事しただけで特に対策はとらなかったということも聞きました。

7月4日に、高校に通っている弟が「ウルムチ第十四高校、第十六高校、新疆師範大学、新疆大学、その他のいくつかの大学のウイグル人学生らが中心になって明日(7月5日)人民広場で抗議デモを行うという話を聞いた。私たちも行きましょうか」と言った。私は「状況を見て見ましょう」と答えた。そして、両親には言わないことにした。 結局、7月5日には確かに大規模なデモが発生した。

記者:デモ参加者の中には地方からウルムチに来ていたウイグル人が大勢含まれていることは、当局も認めている。地方から短期間で大量のウイグル人がウルムチに集まっていることを知っていながら、普段ウイ グル問題に対して極端に敏感である当局が対策を取らなかった理由は何だと思いますか。

ウイグル人男性:当局の内部からも「当局が意図的に仕掛けた仕業である」との情報を漏らしている人も少なくない。ウルムチでは、多くの知識人や政府職員が「何か大きな事件でも発生すれば、それを口実にウイグルの若者たちを一斉に攻撃し、若者たちを更に減らすとともにウイグル人社会に恐怖感を与え、ウイグル人の反発を呼んでいる諸政策に対する反発勢力を一気に封じ込める狙いがあった。去年の3.14ラサ事件の時と同じような政治的ゲームを仕掛けた。」と見ています。

記者:7月5日の事件当日、あなたはどこにいましたか。

ウイグル人男性:家にいました。四時半ごろ、弟とインターネットを見たら、チャットソフトのQQにどこからか写真が送られてきて、見たら赤い旗(中国の旗)を手にしたウイグル人の学生などが映ったものだった。間もなくして家から外に出たら一人が悲鳴をあげて騒いでいた。その人の話によると、劇場の前でデモが起こり、三人が武装警察に射殺れたという情報をデモ現場にいた息子から電話で聞いたという。暫くすると領事館通りの方向から騒がしい声が聞こえてきた。それを聞いた大勢の人(私たち兄弟も含む)が急いで領事館通りに向かった。すると、多数の学生たちが逃げて走ってきた。中には血だらけのウイグル人女性もいた。人々がその女性に何が起きたかを口々に質問した。彼女は涙を流しながら状況を話してくれた。

その女性によると、学生らが中国の旗を振りながらデモに集まり、当局に「6.26広東・韶関事件」について正式な説明を求めたところ、武装警察はいきなり武力で解散しょうとして学生らを殴りつけ拘束を始めたため衝突が起きた。さらに、武装警察は手に中国の赤い旗以外に何も持っていないデモ隊に向けて発砲し、周辺の道路を封鎖しデモ隊包囲しょうとしたため、みんなが四方八方に逃げ出したという。彼女はさらに、南門経由で山西巷方向に向かって必死で逃げたが、山西巷付近ではデモ隊の後ろを追ってきた武装警察が後ろの方から発砲し、多数の若者が射殺されたという。そして、彼女のすぐ近くで逃げて走っていた女性二人と男性三人が後ろの方から射殺されたのを自分の目で見たという。

記者:その後、何を見たのかあるいは聞いたのかを話していただけませんか。

ウイグル人男性:私たちがいた領事館通りにも多くの若者が逃げてきたが、後を追ってきた大量の武装警察も現れた。うまく逃げ切れた一部の若者たちは新疆大学のほうに向かって姿を消した。残念ながら捕まえられた何十人もの若者はその場で武装警察の酷い暴力を受け、次々と倒され、警察車両に積まれていった。そのうち一人がガソリンスタンダードあたりであまりにもひどい暴力を受けたので、その若者のお母さんらしい女性が急いで警察たちを止めようとしたが、横から走ってきた警察車両にひかれその場で倒れた。周りのウイグル人数人がまだ暴力を止めない警察に向かったが、この数人の男もその場で逮捕されていった。領事館通り付近を一掃した武装警察はその後新疆大学のほうに向かった。これは、夜八時半までに自分の目で見た事実のなです。

その後、私は自宅に戻りました。9時半頃に、自治区教育庁付近に住む友人から電話がありました。彼の家は道沿いにある高層ビルの上層階にあった。彼が自宅の窓から見ていた状況によると、二百人ほどの大学生(中には彼の知り合いもいたという)が新疆大学のほうから教育庁のほうに向かって「ウイグル、ウイグル」と叫びながら進行 し、ちょうど教育庁あたりに来たときに、二台の大型の軍車両でやってきた軍隊に包囲された。そこにはウイグル人が多く住むハバと呼ばれる細長い通りがあり、そこで軍隊が学生らに暴力を振り、多くの学生らを射殺した。デモ隊 の一部は逃げることができたが、大半は射殺されたり、意識を失うまで酷い暴力を受けたりした後に軍のトラック に積んで連行されたという。

アディルサーカス広場付近の道沿いのマンションに住んでいる別の友人が自ら目撃したことを次のように語った:
アディルサーカス広場と昌楽園を結ぶ約二~三キロの細長い通りがあり、そこにはウイグル人が多く住んでいた。 十時半ぐらいに黒い服をきた大量の武装警察が現れ、電気が一斉に消された。しばらくすると、アディルサーカス広場のほうから約三百人の若い男女がそこに逃げてきた。中には老人はいなかったが、小学生と思われる子供たちもいた。通りのあらゆる出口はすでに軍や武装警察に囲まれていた。その後さらに、大型の軍車両4台と消防車数台がやってきた。そして、軍隊や武装警察は四方八方から彼らを攻撃し、無差別に暴力を振りながら捕まえ始めた。しかし、若者たちも激しく抵抗したり、必死で逃げたりしたが、軍隊と武装警察に加えて消防車が両方から水をかけたりして、やがて逃げ口もなくなった。若者たちはそれでも激しく抵抗した。やがて、軍隊と武装警察は若者たちを包囲し、彼らに向けて一斉に無差別発砲し皆殺しにした。

さらに、イスラム学院の裏側の通りで、深夜二時半頃に遺体や重傷の人をびっしり積んで、軍車両何台分もの量で運んで行ったことを目撃したと証言している人も少なくない。このように、軍や武装警察の攻撃から逃げて隠れるために暗くて細長い通りに入ってしまい、通りの出口で待ち伏せしていた軍や武装警察の無差別発砲にあってしまった人はたくさんいるとの声がウルムチで多く聞かれます。なお、ある回族の人が、家の前で武装警察に射殺されたウイグル人男性を見て、同じイスラム教ということで、彼に白い布をかけてあげたことを翌日に話してくれました 。

記者:拘束された人の数について、何らかの情報を聞きましたか。

ウイグル人男性:名前は言えないが、ウルムチの特警(特殊警察部隊)の中に知人のウイグル人男性がいました。彼によると、当日の夜、本部から緊急会議のお知らせがあり、みんなが集まったという。この部隊の中にはウイグル人隊員もある程度いたわけですが、会議ではまずウイグル人隊員全員の武器(銃)が回収されたという。そして、ウイグル人隊員全員に対して外に出ないで待機することが命じられ、漢人隊員のみが出て行ったという。10時半を過ぎた時に、待機していたウイグル人隊員も含めて約6000人の隊員が集められ、全部で六つのグループに分けられ、ウルムチ市内の六つのウイグル人居住区に向かって、一斉拘束が始まったという。彼が所属したグループは大湾方面に向かった。彼らが現場に到着した時には、すでに至る所でウイグル人の悲劇は終わっており、多くの死者が出ていたという。その後、ウイグル人居住区で無差別にウイグル人男性の拘束が行われ、彼のグループだけで1400人以上を拘束した。しかし、他の五つのグループは何人を拘束したのかは、一切わからないという。それぞれのグ ループの拘束者の数などは厳密に扱われたためだという。

記者:あなた自身も拘束されていたそうですが、取り調べの際にどんなことを聞かれましたか。

ウイグル人の男性:私が拘束されたのは7月7日夕方のことです。警察が自宅に入ってきて、理由を説明することもなく私を拘束して連行していった。自分のシャツを自分の頭にかぶせ眼が閉じられたため、どこに連行されたかも全くわからなかった。7月5日に領事館通りにいた私の姿がカメラに映っていたのが拘束の理由だったらしくて、当日どこにいたのかとしつこく聞かれました。私は、買い物に出かけたのですが、街が人で溢れていてバスも止まっていたため帰ることができず街に残ってしまったと答えた。しかし、警察はそれに信じてくれず、裸にしてから背中に電気棒で必死で殴った。私が「何もしていません」といくら説明しても、「お前は当日その現場にいながら何も していないはずがない」と言われ、一晩中暴力を受けました。食べ物も一切与えてくれなかった。翌日の午前中に、父がなんとか私の居場所を突き止め、警察側と交渉し何とか私を連れて帰ることができた。父の警察官友人が介入したから私が釈放されたことは、後から知りました。

記者:そのほかに何か聞かれましたか。

ウイグル人男性:お前自身が何もやっていないなら、誰が何をしたのかを見たはずだろう。お前が見た奴らの名前、顔などを知らないか、私たちが会わせたら確認できるかなど細かく聞かれました。そして、私服姿でウイグル人居住区を一週間ほど歩き回るから、お前も一緒にいって逮捕に協力するようとも強要されました。私は、「当時街が大混乱に陥ったので、誰が誰なのかは覚えていません。顔を会わせても確認できません」などの回答を繰り返しましたが、暴力も十分に味わった。

記者:拘束されている間、他のウイグル人拘束者を見ましたか。

ウイグル人男性:勿論見ました。場所は分からなかったのですが、私が連行されたところには地下二階まであった。警察は、まず私を地下一階に連れて行き各部屋を歩き回ったが、どの部屋も拘束されたウイグルの若者たちで一杯になっていて、空いている部屋はなかった。中には、男性も女性もいて、手錠と足かせがかけられていた。さら に、男性は皆裸にされていた。結局、空いている部屋がなかったため、地下二階に連れて行かれました。地下二階には、空き部屋が一つありましたので、私はそこに入れられました。

http://www.rfa.org/uyghur/xewerler/tepsili_xewer/5-urumqi-weqesi-shahidi-11032009204941.html
http://www.rfa.org/uyghur/xewerler/tepsili_xewer/urumchi-weqesi-shahidi-11042009185455.html

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