【評論・主張】この「協定」の内容は本当にそうだったのだろうか

RFA 2010.01.15 ウイグル人評論家スデック・ハジ・ロズ | 翻訳・掲載:2010.01.18

ネットで検索していたところ、「博訊網」で発表されたある記事のところで突然私の目が止まった。「1944年 東トルキスタン共和国の始末」と題する記事で、筆者は台湾人の安娜さんだった。(聞いた話によると、安娜さんはかつて「大紀元」サイトの編集長を務めていた。)

ここでは、安娜さんが2006年9月4日に「博訊網」で発表したその記事を、一部抜粋した形で紹介したい。

「1949年6月、劉少奇を団長とする中央政権の代表団がモスクワに行って、中ソ関係について会談を始めた。」と記事を始めた安娜さんはこう述べている:「鄧力群が政治秘書を務めた。会談の中で、ソ連側が『三区勢力を利用すれば、軍事的に国民党を抑えることができる』と積極的に提案した。これを受け、中央政権が鄧力群を中央政権の代表に決め、三区政府との連絡のために派遣した……」
(注:1944年の東トルキスタン独立革命は中国人(漢人)らに歪曲され「中国人民民主主義革命運動の一部分」「三区革命」などと呼ばれ、東トルキスタン共和国(1944-1949)政府は「三区政府」と呼ばれている。ウイグル人側から見れば、民族の偉大なる独立革命に対する侮辱的な呼び方にしか映らない。)

筆者は次のように続けている:「鄧力群は1949年8月14日、グルジャに到着し、計画を執行し始めた……鄧力群は、三区政府が代表団を中国人民政治協商会議に派遣することを希望するという内容の毛沢東の書簡を自らアフメットジャン・カスムらに手渡した……そして、その三日後の8月17日には、アフメットジャン・カスムらリーダたちが『飛行機事件で全員死亡』した……」
(注:ウイグル人は誰もこの「飛行機事故」に信じていない。東トルキスタン共和国のリーダたちがソ連領に無事到着し、その後ソ連領で暗殺されたとの目撃証言(当時ソ連領で彼らの通訳を担当した当事者の証言)まである。)

筆者はさらに次のように続けた:「1949年8月26日、新疆は平和解放された。」
この日はちょうど、アフメットジャン・カスムらリーダたちが飛行機事故で全員死亡したと、中国共産党が発表したその日ではないか。

筆者は続けた:「毛沢東は1949年12月16日にモスクワに行って、スターリンの70歳の誕生日記念会に参加することにした(書籍『誰も知らなかった毛沢東』では12月6日と書かれている)。1カ月後、毛沢東は周恩来をモスクワに呼び寄せた。(ということは、周恩来は1950 年1月6日モスクワに来たことになる)1950年2月12日、中ソ両国は毛沢東とスターリンの指導のもとで、中華人民共和国中央政府全権代表の周恩来とソ連の全権代表オリヤ・ウィシニスキが、『中華人民共和国・ソビエト社会主義共和国友好・同盟特別協定』に調印した。 」

「この『協定』は19条項から構成されており、『協定』の第19条には:『協定』は極秘である。『協定』を結んだ両国には秘密を守る義務がある。公開してはならないと定めている。しかしこの極秘『協定』は1950年7月16日にアメリカ対外政策協会によりニューヨークで公表された。この『協定』の第17条は当記事で取り上げる問題に関係するので、記事の終わりに添付しておくことにした」と、筆者の安娜さんは述べている。

「この『協定』の第17条には次のように定めている:『協定』を結んだ両国は内モンゴル、新疆、チベットで各民族が自らの共和国を持つことに同意する。これらの民族の独立は両国が責任を持って支援する。」

記事の紹介はここまでにし、本題に戻りたい。さて、1950年に毛沢東とスターリンとの間で調印された「協定」の内容は本当にそうだったのだろうか。この「協定」はなぜ執行されなかったのか。

中国側の執行はあり得ないにしても、スターリンはなぜ「協定」により毛沢東に圧力をかけなかったのか。朝鮮戦争の勃発がスターリンを緊張させたのか、それとも朝鮮への軍隊の派遣を毛沢東にさせたかったスターリンが、毛沢東との間で更なる秘密条約を調印し、上記の「協定」を失効させたのか。あるいは、スターリンが中国に圧力をかけ、この「協定」を執行する前に、1953に死んでしまい、「協定」は両国間でそのままになってしまったのか。

http://www.rfa.org/uyghur/obzor/obzor-sidik-01152010183117.html