満州建国の真実(1)建国の高き志「五族協和」

PHP Biz Online 衆知(歴史街道) 2012.07.04

中西輝政 (京都大学名誉教授)

満洲建国は「明治維新の理想」実現に向けた、最後の1歩だった

日露戦争以降、20年以上も続いた日本の苦難の時代の終わり…それが満洲事変及び満洲建国だった。満洲を経済発展させることでロシアの軍事的脅威を排し、さらにアジアの近代化を目指した児島源太郎以来の理想は、中国の辛亥革命やロシア革命さらにアメリカの牽制により時代の激浪に翻弄され尽くす。そして日本人は、ギリギリの決断を下すのだった。

満洲に掲げられた高き志

 昭和6年(1931)の満洲事変とその翌年の満洲建国について、現在、日本人の多くはこんなイメージを抱いているかもしれません。すなわち「関東軍が謀略によって一方的に満洲全士を侵略して、傀儡国家を作り、日本をその後、15年にわたる泥沼の戦争に引きずり込んだ」と。

 しかし、満洲事変と満洲建国を「昭和の侵略戦争の始まり」として否定するのは、全くの誤りです。むしろ、これは満洲をめぐって「日露戦争以降、20年以上続いた日本の苦難の時代の終わり」というべきものでした。だからこそあの当時、ほとんど全ての日本人がこぞって満洲建国に歓呼の声をあげたのです。

 そもそも、日本は満洲の地に元来、正当な領有権を有していたことを忘れてはなりません。日清戦争後の下関条約(1895年)によって、日本は清国から遼東半島の全域と奉天のすぐ南までの広大な地域(南満洲の要部)を割譲され、その永久の領有が合法的に認められていたのです。ところが、周知のように満洲への野心を持つロシアが、独仏を誘い武力による威嚇によって、それを日本から取り上げ清国に返還させます(三国干渉)。満洲事変を考える時、我々は常にこの三国干渉の歴史から考えてゆくべきなのです。

 ロシアは、日本から奪った遼東半島を「租借」という形で、自らの支配下に置いただけでなく、清国領の満洲全土を不法占領し、さらに朝鮮を窺います。日本人の危機感は頂点に達し、明治37年(1904)の日露開戦に至るのです。

 そしてロシアに勝利した日本は、ロシアから遼東半島の一部の租借権と長春以南の鉄道権益(後の南満洲鉄道=満鉄)を譲渡されました(ポーツマス条約)。これはロシアが清国から租借していた権益であり、しかも日本は改めて清国と条約を結ぶことで全く合法的に満洲権益を得たのです。このようなことは当時の国際社会では、ごく一般的な行為でした。

 こうして手にした権益も、日本が三国干渉によって奪われた正式の領有権に比べ(鉄道を除けば)、はるかに小さく、また不安定なものでした。それでも日本は、これを受け入れるしかありませんでした。文字通り国家としての存亡をかけ、しかも10万の日本兵の命と国家予算の数倍ないし10倍の国費を投入して得たのが、これだったのです。

 それゆえ、日露戦争後の日本は、この権益を、至極大切なものとして大事に育てようと決心し、奮闘努力します。

 日本の満洲経営は明治38年(1905)より始まりますが、この時、南満洲鉄道設立委員長となった児玉源太郎は、次のような壮大な構想を描いていました。

 「満鉄を、シベリア鉄道経由で欧州と結び、満洲を東アジアの一大経済基地として発展させる。開発はロシアとも協力し、ロシアにも利益をもたらすようにする。さらに、各民族の協同による満洲の発展を図ることによって、清国とアジアの近代化にも貢献する」これはもう、いじらしい程の「優等生」ぶりだったと言っていいでしょう。

 満洲での共存共栄を謳い、互いの共通の利益で結ばれた「日露協商」を結ぶことで、「復讐戦」を考えていたロシアの軍事的脅威を排するだけでなく、東アジアの諸民族の連帯、さらにユーラシア大陸をまたいで東西文明の交流を図る…明治維新の理想をこれほど端的に表現した構想もないでしょう。これは、満洲建国時に掲げられた「五族協和」、すなわち満洲人・日本人・漢人・朝鮮人・蒙古人が満洲国の発展のために互いに協調していくという、あの理想の萌芽と言うべきものかもしれません。

日本の命運を狂わせた2つの革命

 しかし、その後の日本の満洲経営の道は決して平坦ではなく、むしろ常に危険に晒されていきます。その重大な障害となったのが、明治44年(1911)の辛亥革命と、大正6年(1917)のロシアの共産革命であり、さらに日露戦争の直後に始まり一貫して日本の満洲における発展を抑え込もうとするアメリカの“門戸開放”という名の「対日牽制政策」でした。つまり、これらを俯瞰して言えば、20世紀前半のおよそ50年間は、満洲をめぐって、日本、ロシア、中国、アメリカという4者が、その争奪を競い合う時代だったということです。

 この時、注意すべきは、清朝の滅亡した後、満洲は決して「中国の領土」ではなかったということです。戦前、東京帝国大学と京都帝国大学の双方で東洋史を教えた矢野仁一は、大正13年(1924)になっても、「清朝の歴史的な形成の仕方から見て、滞洲は元来、支那の領土とは言はれない」(『近代支那論』103頁)と明言していました。

 この点において、辛亥革命の残した今日まで続く最大の問題は「孫文の裏切り」にありました。

 革命の対象となった清朝は、そもそも満洲を故地とする満洲族の王朝で、そこを拠点にして中国本土に進出し漢民族の明朝の領土を併呑 <へいどん> したのち、モンゴル、チベット、ウイグルなどの諸民族の住む地域を服属させることに成功しました。以後20世紀まで、清国はあくまで清朝皇帝の下に、漢民族とは互いに対等の形で蒙古族、ウイグル族、チベット族から成る“大清連邦”とでも称すべき大版図 <はんと> を形成していたのです。

 ですから、辛亥革命で清朝が崩壊したら、これらの諸民族はそれぞれ独立するのが本来の形だったわけです。

 現に辛亥革命後、孫文は当初、清朝支配下の諸民族は漢民族と対等の立場で独立すればよい、と唱えていました。ところが宣統帝溥儀 <せんとうていふぎ> が退位すると、孫文は掌を返して「清朝の領土は全て中華民国が継承する」と宣言したのです。

 当然ながら満洲族の中からも、故地・満洲での再興を目指す動きが出てきます。そしてこの場合、清朝の王族だった満洲人たちが、自らの出身地である満洲において権益を有していた日本と結びつこうとするのは、当然の動きでした。満洲のみならず、チベットやウイグルを含め、現在も独立を目指す中国の「少数民族」の運命を狂わせた最大の原因こそ、この「孫文の裏切り」なのです。

 これ以後、漢民族が支配する中国(中華民国)は、かつて一度も支配したことのない満洲の地を「中国領土」と主張し、日本やロシアとその支配を争うことになります。

 そして、大正6年に勃発したロシア革命が、中国の混乱に拍車をかけ、満洲の運命を一層大きく狂わせていきます。

 ロシア革命の本質は、「共産主義の輸出」にありました。ロシア一国では共産主義は延命できないと考えたレーニンは、諸国の共産主義勢力を糾合すべく、大正8年(1919)に「第三インターナショナル(コミンテルン)」を結成、ソ連の強い影響と統制の下、「世界革命」を目指していくのです。

 当初、彼らはドイツやフランスなど西欧諸国での共産革命を目論み、これら各国の政治や社会の混乱を策します。その財源には、帝政ロシアから奪った莫大な財宝が充てられました。

 コミンテルンの活動の本質は、公然たる運動ではなく、秘密諜報・破壊活動にありましたが、当初コミンテルンによる革命の矛先とされた西欧諸国では、各国の防諜体制がだいたい大正12年(1923)頃には確固たるものとなり、ヨーロッパで共産革命を起こすことは、ほぼ不可能となりました。

 壁にぶち当たったコミンテルンが、次に狙った革命の輸出先――それが、袁世凱 <えんせいがい> 死後、軍閥が割拠して争乱状態にある中国でした。コミンテルンは国民党の指導者・孫文と結ぶことで、「中国革命」の実現を狙います。彼らの大きな目的は、中国での共産主義革命実現もさることながら、中国に大きな権益を有する「反ソ帝国主義」の2大勢力、イギリスと日本の「背骨をへし祈る」ことでした。そのための手段としてコミンテルンは、中国で排外的なナショナリズムを煽る戦術をとりました。

 ここで、孫文による「第二の裏切り」と評してもよい、愚行が犯されました。大正12年1月、孫文はソ連のヨッフェと会談し、中国革命の未来をコミンテルン路線に委ねることにしたのです。そしてコミンテルンの指導で大正10年(1921)に結成されていた中国共産党の党員が大挙して国民党に加入(国共合作)し、ボロディンなど多数のコミンテルン工作員や共産党員が中国国民党と政府の幹部や顧問に就任して、大きな影響力を振るいました。孫文の「三民主義」の理想はここで完全に裏切られたと私は思います。

 ボロディンらの指導と援助でソ連赤軍型の強力な軍隊「国民革命軍」が育成され、それを率いた蒋介石が中国の統一を目指して「北伐」を開始します(大正15年、1926)。その途上ではコミンテルンの指導で、意図的に日本人を含む外国人居留民に対して暴虐の限りが尽くされました。昭和2年(1927)の「第一次南京事件(中国国民革命軍によって日英米伊仏など各国の領事館や居留民が襲撃された事件)」は象徴的です。

 それと併行して、コミンテルンと中国共産党は満洲でも、主として地下活動によって精力的な反日・排日工作を開始します。その結果、それまで平穏だった奉天においても、昭和2年9月、突如、2万5千人もの大規模な排日デモが行なわれ、日本製品と日本企業に対するボイコット運動(日貨排斥)が始まります。この動きは、またたく間に日本人が多く居住する南満洲の各地に広がって暴力事件が多発していきます。

 つまるところソ連は、南北両方向から日本の満洲権益に襲いかかったのです。

 こうして、中国大陸とりわけ満洲における日本の利権が、大正末には大きな脅威にさらされるようになったのですが、日本の歴代政府は「事なかれ主義」に徹し、「先延ばし政策」しか、打つ手がありませんでした。そこには、アメリカの存在があったからです。アメリカは、ウィルソン大統領以来、中国や満洲において日本の勢力がこれ以上、発展することを何としても牽制しようという政策(門戸開放)を基本方針としていました。

 第一次大戦中、ドイツとの戦争で手一杯になっていたアメリカは、一旦は満洲における日本の「特殊権益」を認めましたが(1917年、石井・ランシング協定)、戦後、ワシントン会議(1921~22年)でその廃棄を日本に求め、日本はこれを受け入れました。加えて同会議において、日本は自らの大陸発展の手を決定的に縛ることになる「中国に関する九カ国条約」にも調印してしまいました。ここから、満洲をめぐって日本の「隠忍自重」と「自縄自縛」と言われた苦難の道が深まっていくのです。

 戦前日本を代表する東洋史家・内藤湖南は、早くも大正13年(1924)に、目下「日本は隠忍の上にも隠忍して」いるが、「結局は破裂するしかない道を辿っているのである」と喝破し、その原因は、外務省を始めとする日本政府が「支那問題に対しても、米国に叱られるか、ほめられるかということを第一に考へている」からだと述べています(『新支那論』)。湖南の予想通り、1920年代末に至って中国国民党が「革命外交」に突き進んだのも、結局のところ、この日本の対米姿勢の弱さに、中国としての突破口を見出したからです。

 国民政府の外交部長(外相)・王正延 <おうせいてい> は、「満鉄などの権益の源である日本との不平等条約は一方的に破棄する」と主張します。これは、不平等条約改正のために明治維新以来、血の滲むような不断の努力を積み重ね、列強との40年にわたる交渉によって、ようやくにしてその改正撤廃にこぎつけた日本の国民にすれば、到底容認できない、あまりにも勝手無法なものでした。さらにこの頃になると中国各地では筆舌に尽くし難いほどの反日・排日行為が頻発しましたが、その火に油を注いだのも、この「革命外交」だったのです。

 こうして日本は、内藤湖南がすでに早くから見通していた通り、満洲をめぐりギリギリの瀬戸際へと追い込まれていったのです。昭和に入ると多くの国民も、刻々と「破裂の時」が迫る「満蒙の危機」を如実に感じるようになりました。

<「満洲建国の真実(2)“失われた20年”の末に」につづく>

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